かけす・くらぶ

身近な生き物たちの出会いと「すい臓がん」闘病記

あなたへ。

サンドウィッチマン

2007年「M-1グランプリ」で敗者復活戦から勝ち上がって4200組の頂点に。

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2011311日。ロケで宮城県気仙沼市を訪れていた。立っていられず、地面に手をついてしまうほどの大きな地震。スタッフから「山に逃げよう」と言われ、車で登り、街を津波がのみ込んでゆくのを目の当たりにした。「さっきまでいた駐車場のビル屋上に逃げていたら、助からなかったかもしれない」。

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震災5日後には、寄付を集めるための口座「東北魂義援金」を開設。5月には都内でチャリティライブを開き、収益金を含め、約3億円の義援金を被災自治体に届けた。今も月12回沿岸地域を訪ねる。

「被災者にとっては10年も11年も変わらない。これまで以上に深く関わっていきたい」。

改めて「ピザ屋」を観た。面白い。色褪せない。

 

「金 鐘賢(キム・チョンヒョン)さん」

1957年、観光南部の全州生まれ。96年に日本に移り住み、礼拝所を設立。翌年から生活困窮者向けにおにぎりとみそ汁の炊き出しを始める。現在は毎週金曜日に西成公園(大阪市西成区)で活動している。炊き出しは生涯続ける。そう心に誓っている。

「困っている人を見て見ぬふりはできません。命ある限り続けたい」。

 

「岩田 久美さん」

息子と同級生の弁当を作り続けた。

9年前、岩田さんは宮城県名取市2K仮設住宅に住んでいた。当時高1の長男に毎朝二つの弁当を作っていた。一つは津波で両親を亡くした同級生に。毎日たっぷりのご飯を詰めた。弁当は二人の卒業まで作り続けた。「もし、私が亡くなったら、別のお母さんがそうしてくれたかもしれない」。

生と死が紙一重で分かれたあの日、誰がどうなってもおかしくなかった。

 

37日の朝刊の1面トップに掲載された記事を朝食時にかみさんと見た。

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「そういえば昔、おかあさん(私はかみさんのことをこう呼ぶ)も二つ作っていたな」

「そうやで」

「あれはいつ頃のことやろ?A君の分やな。あの頃、A君は兄と二人暮らしやったな。事情はもう忘れてしもたけど。きっかけはたしか、社員食堂で並んで食べていたら、A君がうまそうやなといっつも羨ましがってた。見かねたオレが要るか?って打診したと思う」

「そのことをお母さんに話したら、一つも二つも変わらへん、作るよって快諾してくれた。それから並んで同じ弁当を食べるようになったんや」

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「あの頃は、橋の内(茨木市の町名)の文化住宅やったなかなぁ…」

「そうか、子供がまだ一人の頃か。いつまで続いたんやろ?」

「分からん。結構長かったんちがう」

「あのあと、A君は結婚したんやな。A君、今でも覚えているかな?」

若い頃から決して裕福ではなかった。

お金がすべてなどと思わなかった。昔も今も…。

 

サンドウィッチマンさん、キムさん、岩田さん、そしてかみさん。

 

あなたを動かしているものは何ですか?

「にんげん」を動かしているものは何ですか?

その見えない「ちから」のようなものに私は感動し、涙する。

心に風が吹き、悲しみが降りかかったとしても、きっと乗り越えられる。

その「ちから」があれば。きっと。

「にんげん」っていいな。捨てたもんじゃない。

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