かけす・くらぶ

身近な生き物たちの出会いと「すい臓がん」闘病記

広島へ 前編

動画を追加しました。2020.11.29

広島。そして「ヒロシマ」。

私はこの歳になっても未だに訪れていない。

「生きているうちにどうしても行ってみたい…」ちょっと大袈裟かもしれないが、そう思うようになったのは3年前に罹患してから。他の癌と違ってすい臓がんは極端に「生存率」が低い。だから動けるうちに行っておきたい。

唯一の被爆国日本の国民の一人として、何があったのか、この目で見ておきたかった。

予定では3月のはずだった。だがコロナ禍でキャンセル。秋に再企画。そして第3波。直前まで悩んだ。これは「不要不急」なのか?私にとっては「必要緊急」ではないのか?容体が安定している今しかないのでは?との判断で決行した。

1泊2日の平和記念公園をゆっくりめぐるプラン。広島城縮景園も宮島も行かない。2日目は平和記念資料館のピースボランティアガイドに園内及び周辺の慰霊碑などの解説をしてもらう予約をした。

広島駅前から市電に乗る。紙屋町西下車。190円。f:id:kakeyan60am:20201127195837j:plain

元安川左岸から平和記念公園を望む。f:id:kakeyan60am:20201127195913j:plain

元安橋から北を望む。工事中の原爆ドームが見える。f:id:kakeyan60am:20201127195946j:plain

橋を渡り、公園内に。原爆死没者慰霊碑f:id:kakeyan60am:20201127200022j:plain

平和記念資料館は予約制。行列ができていた。消毒と検温後入館。撮影可。f:id:kakeyan60am:20201127200111j:plain

 

1945年8月6日午前8時15分。26.7℃、雲量8~9薄曇り、視界良好、北北東の風約1m/秒。広島市原子爆弾が投下。爆心地上空600mで爆発。爆発の瞬間、強烈な熱線と放射線が四方へ放射されるとともに、周囲の空気が膨張して超高圧の爆風となり、これら3つが複雑に作用して大きな被害をもたらした。

原爆がさく裂した時、広島には35万人の人々がいたと考えられていて、原爆によって死亡した人数については現在も正確につかめていないらしい。それは身元が判別できない遺体や川に流された遺体も多く、ひとりひとりを確認することは困難な状況だったからだという。広島市では1945年12月末までの死亡者数を約14万人(±1万人)と推計している。

 

展示内容の抜粋。 

f:id:kakeyan60am:20201129221630j:plain

f:id:kakeyan60am:20201127200224j:plain

f:id:kakeyan60am:20201127200247j:plain

2時間近くかけて見学した。そのあと園内を散歩。f:id:kakeyan60am:20201127200708j:plain

被爆したアオギリの木があった。

この木は爆心地から約1.3㎞離れた広島郵政局の中庭にあり、熱線・爆風をまともに受け、枝葉はすべてなくなり、幹は爆心地側の半分が焼けた。枯木同然だった木は翌春に芽吹き、人々に生きる勇気を与えた。

1973年、郵政局建替えに伴い、現在の地に移植。その後も毎年種子をつけ、これらの種子は国内外へ贈られ、多くの2世の木が育っているという。f:id:kakeyan60am:20201127200924j:plain

f:id:kakeyan60am:20201127200957j:plain

肉眼で鳥を探す。上空にトビ、カモメの仲間。ツグミシロハラf:id:kakeyan60am:20201127200739j:plain

歩き疲れた。きょうはこれくらいにしておこう。歩数計は11,461歩を記録していた。

つづく。

 

 

 

スターマーク