かけす・くらぶ

身近な生き物たちの出会いと「すい臓がん」闘病記

広島へ 後編

朝の平和公園。人影もまばら。f:id:kakeyan60am:20201128161904j:plain

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ピースボランティアと待ち合わせ。

ガイドの三浦さんは70歳。被爆2世。国鉄の駅員だったお父さんは被爆。後に白血病で亡くなられた。お母さんは実家に帰っておられて無事だったという。

ここはガレキの上に土を盛って出来上がったという。「じゃけー、未だに遺骨が残っている可能性があります。」と広島弁で解説。

 

原爆死没者慰霊碑f:id:kakeyan60am:20201128162014j:plain

1949年に「広島平和記念都市建設法」が制定され、この平和公園が造られた。1949年は私が生まれた年。慰霊碑には32万4千人の亡くなられた人の120冊の名簿が収められている。

碑文「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」には主語がない。建立当時はその解釈で論議を呼んだ。すべての人びとが原爆犠牲者の冥福を祈り、戦争という過ちを再び繰り返さないことを誓う言葉で、過去の悲しみに耐え、憎しみを乗り越えて全人類の共存と平和を願い、真の世界平和の実現を祈念するヒロシマの心が刻まれている。「過ちは」人類全体が犯したもの。主語は我々人類なのだ、と私も思う。

「あっハクセキレイ!」

話を聞いている途中でハクセキレイがやってきて屋根に止まった。f:id:kakeyan60am:20201128162058j:plain

 

原爆の子の像f:id:kakeyan60am:20201128162558j:plain

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佐々木禎子さんは当時2歳で被爆。「黒い雨」にも打たれる。1955年1月、白血病発症。10月25日没。享年12歳。当日朝、父から食べたい物はと尋ねられ、「お茶漬け」と伝え、大急ぎで用意したお茶漬けを2口ほど食べ、「おいしい」と呟いた言葉が最期だったという。

病院では折り紙で千羽鶴を折れば元気になると信じ、薬の包み紙などで針を使って折るようになる。1,000羽以上折ったものの回復することなく亡くなった。f:id:kakeyan60am:20201128162941j:plain

1958年、全国からの寄付金で「原爆の子の像」が完成、現在も国内外から折り鶴が捧げられ、その数は年間約1千万羽、10トンにも及ぶ。

市ではその「思い」を昇華へと取り組み、焚き上げや再生紙(便箋、広報紙、賞状など)として利用している。f:id:kakeyan60am:20201128162820j:plain

中学生らが起立して説明を聞いていたのが印象的だった。f:id:kakeyan60am:20201128162635j:plain

 

「平和の鐘」f:id:kakeyan60am:20201128163245j:plain

日本音風景100選のひとつ。鐘の表面には国境のない世界地図が浮き彫りにされ、撞座(つぎざ)には原水爆禁止の思いを込めて原子力マーク、反対側には撞く人の己の心を写し出す鏡が入れられている。鐘楼の周りの池にはハスが植えられ、被爆当時、ハスの葉で傷を覆い、火傷の痛みをしのいだという、被爆者の霊を慰めたもの。f:id:kakeyan60am:20201128163341j:plain

 

「動員学徒慰霊塔」f:id:kakeyan60am:20201128165644j:plain

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被爆当日、市内で建物疎開作業を行っていた国民学校高等科以上の生徒約8,400人のうち、約6,300人が犠牲となる。また市内の各事業所に出ていた多くの学徒も犠牲者となる。建物疎開とは空襲により破壊された建物の瓦礫などの処理を奉仕隊で行なう作業。青空の下での作業で、原爆の熱線を直接大量に浴びることになる。

 

原爆ドームf:id:kakeyan60am:20201128163420j:plain

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ユネスコ世界遺産。当時は広島県産業奨励館。1歳の時に被爆し、15年後白血病で亡くなった楮山(かじやま)ヒロ子さんの日記「あの痛々しい産業奨励館だけがいつまでも、おそるべき原爆のことを後世にうったえかけてくれるだろうか」に心を打たれた人々によって保存運動が始まる。現在5回目の保存工事中。f:id:kakeyan60am:20201128163519j:plain

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「原爆供養塔」f:id:kakeyan60am:20201128163825j:plain

1955年8月5日設立。氏名不詳や引き取り手のない遺骨を供養。爆心地に近いこの付近には無数の遺体が散乱し、荼毘にふされた。内部には納骨堂があり、一家全滅で身内の分からない遺骨や氏名の判明しない遺骨など約7万柱が収められている。

 

次から次へと説明を聞くうちに予定の1時間30分は過ぎていた。

「あっ、もう過ぎていますね。大丈夫ですか?」

「いいえ、大丈夫ですよ。あとはお好み焼きを食べるだけですから。」

「ありがとうございました。」

とお礼のあいさつを交わして、資料館へ戻られる三浦さんの背中を見送った。

別れた後、私たちは園内のベンチに腰かけた。

「疲れたなぁ…。」

 

その傍に峠三吉の詩碑があった。

三吉28歳の時、爆心地から3㎞離れた自宅で被爆。戦後、原爆反対、平和擁護の作品を数多く発表。碑文は「原爆詩集」の序として書かれたもの。1953年3月10日手術中に死去。享年36歳。

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重い足を引きずるようして路線バスに乗り、帰路についた。

意義深い旅だった。付き合ってくれたかみさん、ありがとう。お疲れ様。歩数計は13,069を記録していた。

 

帰宅して古い動画を見返した。2016年5月27日、オバマ大統領広島訪問。

 

「死が空から落ちてきて世界が変わった…」で始まる、17分にも及ぶあの歴史的なスピーチ。

スピーチの原案は側近の副補佐官が書いたとされている。ただ、読み上げた原稿の上にはオバマ氏の手書きの推敲メモが多く書き込まれていたという。

そして読み上げた後の「森重昭」さんとの抱擁シーン。今見てもこみ上げてくるのはなぜだろう?

訪問が実現したのには伏線がある。森重さんは自ら被爆者でありながらも、被爆死した米兵を調査してきた人。広島市民は「オバマへの手紙」というキャンペーンで「広島では米兵も原爆犠牲者として追悼の対象になっています。彼らの追悼の意味でも、核廃絶の祈りを広島から発信してください」とアプローチ。その人びとの意思がホワイトハウスに届く。当時のある調査では「原爆投下への謝罪を求めない」回答が78.3%だったという。被爆を体験し、戦後の苦しい時代を生き抜いてきた人たちの間でも。

それはあの碑文「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」に通じるものではないだろうか。

 

核兵器禁止条約が来年1月に発効する中、「核なき世界、追及する勇気」があるのなら、唯一の戦争被爆国として日本がなすべきことはまずは条約に批准することが核兵器廃絶の第一歩だと思う。

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